2003年03月11日

救急事件!?
 
修羅場くぐりました・・・(^^;

ある日、会社でいつものように、昼飯を食いにいった。スパゲティが旨かった。
ところがその午後、腹が痛くなった。。。

なんか、あたったかな?

夕方になっても痛みがおさまらないので、早々に帰宅した。
家に帰ると痛みがさらに増してきた。

こりゃ本格的に食中毒になった、と思い、一応会社で紹介してくれた、電話相談に電話してみた。
症状を言ったら、そりゃ盲腸の疑いもあるから救急病院に行けとのことだった。
なんだそれだけかい?(^^;
と思ったが、痛みはどんどん増すばかりで耐えられなくなってきたので、救急に行くことにした。
もはや自分で運転できるレベルではなく、副隊長にお願いした。

二度目のNorth Shore University Hospitalの救急である。
勝手知ったる、エマージェンシー入口から転がり込んだ。8時くらいだった。

このときには、痛みがピークに達しつつあった。
顔はゆがみ、脂汗が噴出し、さらに世界がぐるぐる回りだして視界が狭くなってきた。

・・・・・う、こりゃマジでやばいかも??

耐えられる痛みの限界を超え、ほとんど気絶寸前だった。
しかし、いつものように救急は大混雑で順番は、なかなかまわってこない。

40分くらいして、やっとTriageという、救急患者の優先順位付けをするところまでたどり着いた。
あらん限りのボキャブラリーで、死にそうな痛みを説明するが、優先順位はあがらなかった。
んな。。薄情な・・・・・

せめて、なんでもいいからベットを。。。と頼んだけど、ダミ

みんな待ってるんだから、そこで座っとけ!とつめたい言葉に、また意識が遠のく。
そればかりか、レジストレーション(受付登録)まで悠長にさせられてマジでやばかった。

自分の診断の順番がまわってくるまでの時間の長いこと長いこと
痛みに、身もだえながら耐えるしかなかったが、焼け火箸ではらわたをかき回されてる
ような地獄の時だった。

もうこれ以上耐えられない、、、、というときになってやっと順番がまわってきたが、来てから2時間
くらいたっていた。信じられん・・・・ガビーン

受難はまだ続く。
一応診断室に連れていかれたが、混雑が大変なようで、マトモに見てもらえず、結局都合3時間
くらいたってやっと、医者が来た次第だ。何度か気を失いかけた。

一通り問診や触診があり、小水をとったり、血液検査をしたりした。
医者や看護婦が入れ替わり立ち代りいろいろ来て、同じような質問をしてムカついた(^^;
まあ救急だから、時間で人が入れ替わったり、あとは分業が進んでいるってことなのかな?

医者は、盲腸を疑っているようだった。
すでに夜中の12時を回っていた。
痛みはおさまるところを知らず、小さなベットの上で、えびのように体をまるめて痛みに耐えた。
医者の繰り出す難しい医療用語を理解するため、その状況で電子辞書を引きながらもだえた。
まさに地獄や(^^;

そういえば、痛み止めってものを全然だしてくれへんやんかー!と
突然思いたった。
どうも、くれって言うまででてこない仕組みらしい。しまったー!
さらに驚いたことに「どんなんがええ?」って聞くじゃあーりませんか!
をいをい。なんでもいいから、一番効くやつ持ってこいや!と半泣きで訴えると、モルヒネを
打ってくれた。直後、頭がクラっとして視界がぼやけた。さすがはモルヒネだ。
少し楽になった。

英語ではモーフィンと発音する。モルヒネか?と聞いたら、オマエはスペイン語ができるのか?
としょうもない切り替えしをくらった。それところじゃないんすけど(^^;

後で、わかったことだが、痛み止めには、体質に合う合わないは、もとより、値段差があるので
患者に選択させることは良くあるらしい。
事実、あとで隣に来た患者のオッサンは「オラ、モルヒネは高いから、いらねーだ。安い錠剤くれ」
って言ってた。驚異の世界や!
金がないと治療も選別される、恐るべしアメリカ!

そうこうしているうちに、CTスキャンの検査をすることになった。
これがまた地獄だった。
夜中の12時半から、まず1時間おきに、3回造影剤(一回約500mL)を飲む。
ストロベリージュースの出来損ないみたいなやつで、腹がぱんぱんになって辛かった。
そして、最後の造影剤を飲んでから、さらに1時間後にCTスキャナで断層写真撮影を行い
さらにそのまた1時間後にもう一回撮るという。

話を聞いているだけで、頭がくらくらしてきたが選択の余地はなかった。
モルヒネでおさまっているとはいえ、依然として腹痛は辛かった。点滴の針もずきずきした。
熱でもでてきて、寒気に襲われた。

造影剤を飲む時間が来ると、廊下にアナウンスが響き渡った。
この状況で徹夜はこたえた。

なお、子供たちは、近所のKさんに早々に預かってもらい(ありがとうございますm(__)m )
副隊長のみが付き添っていた。相当疲れがたまっているようだ。
しかも、夜中に忘れ物をとりに、自宅まで一人で車を運転して戻ったりもした。
泣きそうだった(^^;
まだこちらに来て日も浅いのに修羅場くぐりまくっておるな。誠に頭が下がる思いだ。
(しかし人間、厳しい状況におかれるとなんとかやるものだ)

明け方近くになり、CTスキャン撮影の時間が来た。
ベットごと運ばれて行き撮影を開始した。
しかし、理由はよくわからないが、コントラストが足りず写りが悪い、という。そんなこと言われてもなあ〜

さらに1時間後、2度目の撮影を行った。
撮影するときに、息を止めるのだが、このときは痛み苦しみで、息がほとんど止められない状況だった。
そのことを訴えると、なにか方法を変えてくれた。
今度はうまく撮影できたようだ。

一端診療室に戻り待機していたが、ほどなくしてまた別の医者がやってきた。
意識が朦朧として、もはや誰が看護婦で誰が医者かもよくわからなくなってきた。


結果として、急性盲腸で、すぐに切除しないと危険な状況(腹膜炎の疑いもあり)とのことだった。
手術以外に選択肢は無いのか?と聞いたが、なしとのことだった。
リスクは、非常に少ないが0でなないことも説明された。
選択の余地は無かった。
さらにレントゲンを撮って、血液検査を再度行った。

ちなみに盲腸は、英語ではAppendixという。プレゼン資料の「付録」と同じスペルだ。
大腸の付録ってことか?


救急に駆け込んでから、9時間が経過していた。
驚いたことに、1時間後に、手術を行うとのことだった。
まあ、やると決まれば早くやってもらったほうが良いことは確かだ。

同意書にサインさせられた。
全部読んでる暇もあろうはずもなかったが、一つだけ「盲腸が開いている可能性が0ではなく
その場合はリスクがあがる」ことを言われた。言われても仕方なく、とりあえずサインした。

看護婦や医者に、グッドラックの声をかけられながら、手術室へ運ばれていった。
意識は朦朧としていたが、麻酔医の説明を少し聞いた。
全身麻酔で手術中はなにも心配がないとのことだった。
部屋に入る前に副隊長と握手した。

執刀医は、マスクで顔が良く見えなかったが自信がありそうな感じがした。

天井からまばゆい光が降り注ぐ、広くてちょっと寒い手術室で、しばらく待たされた。
なぜか80年代のロックがかかっていた。
しばらくすると、マスクをかけられ酸素が吸入された。ちょっと苦しかった。
そのうちに、ちょっと苦いにおいがした。これで意識がとだえた。


3時間近くたって、気がつくと、手術後の集中治療室に運ばれたあとだった。
医者や看護婦が「すべて順調。心配はない」と口ぐちに声をかけてくれた
どうやら手術は成功したらしい。少し安心した。
無事副隊長と再会することもできた。

麻酔のせいか、すぐにまた眠りに落ちた。


しばらくして、麻酔が切れてきたせいか、目がさめてきた。
同時に腹部に激しい痛みが走った。
これはきっと手術の痛みだろう。ずきずきとしたものだった。
麻酔か酸素吸入のせいで、のどもやられていた。激しく痛い。
また、首や腰などにも不自然な姿勢を続けたせいか痛かった。
要するにどこもかしこも痛かった。
また少し眠った。

集中治療室では、看護婦がつききりで見てくれている。
頻繁に、血圧を測ったり、温度を測ったりした。

ようやく意識もはっきりしていた。
体中がずきずきと痛かった。

小便したかったが、起きれるはずもなく尿瓶で済ませた。
点滴を大量に打っているせいか、大量の小水が出た。
体を少しでも動かすたびに、そこら中が痛かった。


しばらくして、部屋に移れることになった。
280号室 相部屋で、もう一人スペイン語をべらべらしゃべるオヤジが入っていた。
ここは盲腸患者専門らしく、オヤジや2〜3日前に切ったと言っていた。
やたらうるさかったが、医者に診断してもらって腹をおされたときには少年の
ような情けない声を出していたのが印象的だった(^^;

スペインオヤジが退院していくと、低音セクスィ〜な声のにーちゃんが入ってきた
これから手術のようだった。

TVは有料


とにかく寝ても起きても、小便しても何しても痛かったが、耐えるしかなかった

  

点滴は、退院直前まで打ちっぱなしだった。


早朝、手術したばかりなのだが、驚いたことに、昼飯がでてきた( ̄□ ̄;)!!


ジュースにゼリー、アイスに、ジンジャエール、そして肉汁という珍妙なとりあわせだった。
味はまあまあだったが、モノが腹に入るたびに痛かった。
1/3くらい食べた。

痛みに耐えて、眠った。


夜が来た。また昼と同じメニューが出た。
今度は半分くらい食べた。ちょっと怖かったが、特に問題はなかったようだ。
尿瓶の小水はすごい勢いでたまっていった。

どこもかしこも痛かった。
起き上がることは全くできなかった。


夜中寝ていると、執刀医がひょっこりきた。
手術は順調だったことを告げられた。中指大の盲腸を切って、原因はおさまたったらしい。
手術は、内視鏡を使う最新技術で、3箇所に小さな穴をあけて行ったそうだ。
以前の方式に比べて回復が早いらしいが、今の自分はボロボロだった・・・・
執刀医は、名刺を出して、来週検査に来なさいと言った。


とりあえずまた寝た。

病院へ転がりこんでから二度目の朝が来た。
あいかわらず手術の痛みや、首、腰の痛み、のどの痛みで苦しかった。
腹はぱんぱんに張ってこれまた苦しかった。


またしても驚くべき事態が起こった!!

ふつーの朝飯がでてきたのである。
がびーん( ̄□ ̄;)!!
パンにコーヒー、スクランブルエッグに、オートミール。。。

・・・・・・・(^^;

をいをい!マジっすか?

食欲皆無だったが、とりあえず、食って直せってことかな?と思い、気合で食べた
気持ち悪くなったが、なんとか半分くらいたいらげた。苦しかった。


しばらくすると、看護婦が来た

「お!朝食食べたのか?」と聞く。
「そりゃ仕方ないから食ったべさ」と答えると
「吐かなかったか?」とまた聞く
「吐かなかったさ」と答えると

「おっし!君はもう退院して大丈夫だ。準備せい」


をいをい・・・(^^;


マジ?

どうやら、冗談じゃないらしい。
まだ、歩ける状態じゃないんですけど・・・


便所に行く練習しろと、促される。
ベットを起こされ、激痛に耐えながら、そしてふらふらしながら、なんとか立ち上がり
便所に行って、用を足し、歯を磨いた。くらくらした。

「荷物をまとめろ。家族をよべー!」

・・・・・・・・・

きびすぃ〜! アメリカ・・・・


いや、ホントきびしいっすな。
まあ、アメリカはこんなもんだよって聞いたこともあるし、確かに病院の混雑をかんがみるに
どんどんベットを開けないとまわっていかないのだろう。

自分が入れたということは、誰か他人が死ぬ思いで出て行ったに違いない
そう考えると、退院するしかないっか・・・
手術後24時間で追い出されることとなった。
請求書はあとで、保険屋からいろいろ送られてくるらしい。

あとでわかったことだが、救急に入ってある程度診断した後に、ちゃんと保険会社に
この男の支払い能力や、何日間保険で面倒を見れるかなどの問い合わせが行って
いたのだ。おそるべし!地獄の沙汰も金次第な社会や。


副隊長が、隊員Bを連れてやってきた。
慣れぬ運転に、初めていれる駐車場に苦戦しながらも、病室にたどり着いた。
車椅子で車のところまで送ってもらい、病院をあとにした。

たった二日間の病院生活だったが、本当に長く苦しかった。
自宅に戻ったが、とにかく傷みで何もできなかった。寝るしかなかった。。。

翌日ももちろん寝たきりだったが、副隊長は、さっさと英語学校に行ってしまった(^^;
どひゃどひゃ

4日くらいして、やっと復調の兆しが見えてきた。

リハビリついでに、近所の公園に行った。
なんと!気温は20度を超えていた。
つい最近まで、氷点下の日々だったのに、突然春が来たようだ。






とりあえず、復活してきて良かったよ!




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